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2012年1月17日

逝くこと

 阪神大震災から17年。「その教訓を私たちは今に伝え、生かす責務を負っています」と話すテレビの若いレポーターは、あの当時の混乱は知らず。ただ、東日本大震災を経て、私たちは再び震災について、集団経験を持つにいたりました。実際の経験の有無は問わず、今、私たちはほとんど全員が震災の経験を共有している心理状態となっています。

 そこには多くの死が背景としてあります。一時に多くの命が失われた、あってはならない事態。それは、今回のような震災だったり、戦争だったり。

 死の悲劇性に関する考察を読んだことがあります。社会学的側面からの考察でしたが、ほとんど記憶の彼方...。

 

 交通事故であろうと、病気であろうと、災害であろうと、戦争であろうと、死の個別性があり、その悲劇性は残された者にとっては差異はないはず。しかし、私たちは"非業"の意味などを与えて、差異を設けます。それでも、ただひらすら逝った命を考えるとき、その差異は霧散して、逝くこと自体が浮かび上がってくるように感じます。誰しもがふとした時に抱く感情...死んだら自分はどうなるのか...そこへ逝った人々...親しき家族だったり、友人だったり

 

 利用者さんが逝くこと、震災で亡くなった人々を想うこと。個別性がより鮮明となる死と、多くの死の双方を考え、その間を行き来しているうちに、私たちは逝くことについての学習をしているのでしょうか。自然に自身が逝くことを考えているような気がします。近しき利用者さんの死は、逝くことの意味を考えよと諭されているようでもあり。ふとした瞬間の寂しさや悲しさが、さまざまな思い出を浸食していきます。(Z)

 

投稿者:W・I・N・G 路をはこぶ 日時15:20 | パーマリンク

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