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2014年8月21日

夏休み

 夏休みをいただきました。ひさしぶりにいい時間を持てた気がしています。高齢の父が入院し、深夜の介護が始まって半年以上が過ぎました。痰の吸引をしたり、体位を変えたり。明日が仕事だと思うと、時にやさしい気持ちになれず、またそんな気持ちになる自分に嫌悪感を持ったり。「あぁ、利用者さんのご家族もそんなことを感じながらの日々なのだろうか」、いや、「親と子とでは感情も異なるのだ」と思ったり。それが明日は休みだと思うと、嫌な気持ちにもならず、やさしく接することができたみたいです。

 延命治療について否定的な考えがあり、その声が日増しに医療費の増大という社会的課題の解決のなかに取り込まれ、大きくなり、また議論がなされています。(延命治療など)そこまでしなくていいという感覚、最後まで生き長らえてほしいという感情とは相反するものなのでしょうか。チューブにつながっていても、価値ある生はあるのではないでしょうか。痰の吸引を終えたとき、父の唇がアリガトウと動くような錯覚、否、今確かに動いたのだと思い病室で涙する私にとっては、この命の実感以上の価値ものがあるのだろうかと思うのです。

 利用者さんが亡くなられました。突然でした。ご家族の涙、スタッフの涙。すべてが命の重み、大切さを物語っています。

 延命治療の無駄を指摘する命の価値は、当事者に帰せられるのではなく、周囲の者の思いに寄るのかもしれません。それが故に否定者は、そのような生を本人が望むのかと問います。生かすなと。本人もまた、迷惑をかけたくないと言っていると。違う。それでも当事者が生を望むような、傍らにいるあなたであったならどうなのか。他の命の否定は、自身の否定であると気づくことは難しいことではないはず...。(Z)

投稿者:W・I・N・G 路をはこぶ 日時17:35 | パーマリンク

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