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2014年12月12日

"隙間"

 私の場合、両親と実家で過ごしていたころには、親の身体と私の身体とのあいだにはほとんど完成されたチームワークができ上がっていた。そしてわざわざ親と交渉しなくても手足のように動いてくれた。実際、トイレに行きたくなれば行かれたし、失敗しても後始末をしてくれたのである。そして私のほうも、親の都合がつくまで文句も言わずに待った。そのような硬直した状況下では、新たなつながり方は訪れない。

 しかし、一人暮らしをきっかけに親との協応構造がびりびりと引き剥がされた。そしてむき出しのまま世界に直面した私は、初めて交渉を必要とする他者との隙間を体験した。そして交渉を通して、等身大の私の身体や、世界や、便意などの生理的欲求について徐々に知ることになったのである。

 一人暮らしを始めてからというもの、私の近くには常に交渉を必要とする他者がいる。それはトイレであったり、腸であったり、介助者であったりするのだが、私は彼らなしでは生きられず、彼らとの継続的な介入し合いのおかげでようやく凍結しがちなわが身をなんとか開き続け、つながりを保つことが可能になっている。

 私と他者とのほどきつつ拾い合うような関わりではなく、単体で切り離された私の運動のみを問題化して、正常な発達のシナリオをなぞらせるようなリハビリの過ちは、そのようなモノや人や自己身体を含めた、他者の存在を軽視したところにあると言えるだろう。 (熊谷晋一郎著「リハビリの夜」)

 言葉でのコミュニケーションが困難な利用者さんとの時間は、もしかすると、"隙間"を埋めようとする時間となっているような気がします。隙間はない方が良い、ご家族との"協応構造"のようなものを構築したいと。そのことが逆に、新たなつながり方が訪れることを阻害している場合もあるのでしょう。利用者さんは隙間をどう感じているのでしょうか。日々の私たちとの時間は、ほどきつつ拾い合うような関わりなのでしょうか。(Z)

投稿者:W・I・N・G 路をはこぶ 日時19:37 | パーマリンク

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